母の左手(2005年9月)
台風の影響で、東京でも大雨が降った。
ニュースでは、ハリケーンで、ニューオリンズ全域が都市機能を失ったことの続報が報じられている。
自然は、人間に対して、こうしてメッセージを送り続ける。
総選挙まであと1週間になった。地下鉄の駅前で、民主党のマニフェストを配っている。この選挙で何が変化するのか、それがぼくが生きているということにどんな影響を与えるのかはよくわからない。でも、ぼくは、マニフェストの小冊子を受け取って読んでみようと思った。
雨のたびに、街の空気は、秋へと向かっていく。
関東での初めての夏で、風邪をこじらせて、救急病院へのICUに担ぎ込まれた母親も、ようやく、状態がよくなり、もとの療養型病院の自分の部屋へと戻った。週末ごとに、通うというもとのペースが戻ってきた。
病室で横になっている、母親の顔に元気がなかった。
2週間近く、肺炎間際で、体力を消耗したのだから、仕方がないと言えば、仕方がない。声も小さく、耳を寄せないと聞き取れない。
表情の寂しさがなんとも辛い。
梗塞のため左半身不随になってから、今の療養病院で、リハビリを繰り返し、かなり左手が動くようになっていたのだが、この数週間の寝たきりで、左手はだらんとしている。
妻が言う。
「おかあさんが寂しそうなのは、左手のせいじゃないかしら。」
半身不随になったあと、母には左半身の感覚がなくなったらしく、自分の左手を自分を認識することができなくなっていた。
いつも不思議そうに、これは何かねえ、誰の手かねえと言っていた。
母にとっては、左手は、自分の胸や顔を触ろうとする子供たちのものなのだった。その子供は、小さい頃のぼくであり、孫たちであり、その他、小さくいとおしく、手のかかるものの手だったようなのだ。
母は自分の左手によく話しかけていた。ちゃんと挨拶しなさい、あなたも欲しいだったらはっきりいいなさい。
ぼくたちは、苦笑しながらも、母が一人きりでないことにどこか安堵っとしていた。
母親が小さな声で、「いなくなると、寂しいものだね。」と、悲しそうにいったというのだ。
妻の推理は、また動かなくなった左手とともに、どこかへ消えた子供たちが母の孤独の原因ではないか。
婦長さんが、リハビリは来週からゆっくりと無理のないようにはじめようと思っていますと言う。
細くなった足をさすりながら、母親が、おそらくリハビリの時に行っているのだろう、小さな声で数を数えるのを聞いていた。
リハビリが、左手の動きと、あの手のかかる子供たちを連れ戻してくれればいいと思った。
人間の心は幻想に取り巻かれている。幻想の支えなしには、人間は生きられない。
現実のぼくよりも、今、彼女の想念の中の父や、子供たちが母を支えているのだろう。