惑星の時間

心の問題をいつも考えています

ともしび(2005年6月)

 

夜霧のかなたへ、別れを告げ

雄々しきますらお、いでてゆく

窓辺にまたたく、ともしびに

つきせぬ乙女の 愛の影 

 

大柄で美人のロシア人歌手が、ピアノを弾きながら、ともしびを歌い始めた。ぼくは、病院の講堂で、車椅子に座った母親の左手を握っている。母親はぼくの指をにぎったりはなしたりしている。

 

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母親の入院する老人病院では、月に一度、家族の日をもうけ、音楽会などを開催する。入院患者は、痴呆性の患者から、寝たきりの患者まで千差万別である。家族とのふれあいの機会を作るという治療の一環だ。

 

故郷の街から、父親の最期を一緒にみとった、叔母夫婦が、訪ねてきた。母親を故郷から連れてきて、2ヶ月がたった。 

 

気丈だが、涙もろい、看護婦あがりの叔母は、久しぶりにみた義姉の老いた姿に涙ぐんだ。叔父も叔母も、自分たちを母親が認識するかどうかを心配していた。叔父は、東京にやってくるのに、母さんが、見間違えると困るから、いつもの恰好をしてきたよと、トレードマークのゴルフ帽をかぶっている。

 

母親は、突然なので、驚いていたが、すぐに忘れるわけないでしょうと、何十年も、彼女と、父親の暮らしを側で見守った叔父夫婦に笑った。

 

小姑と嫁の関係も半世紀を超えると、なんともいえぬ熟成をしてくる。80代の母親にとって、70代の叔母は、もっとも信頼している家族だが、いつまでたっても小姑なのであり、その関係が、表面に浮いたり、沈んだりするさまが、傍目には面白かった。特に、認知症がすすむなかで、母親のもともとの性格が現れる度合いが強まると、小姑、嫁の関係を反映するような辛口のコメントが出てくるようになった。かといって、一番頼りにしてきたのも叔母なのだ。 

 

子供のいない叔母夫婦に、ぼくは可愛がられた。高校の時には、父親の赴任先からは遠いということで、叔母夫婦の家に3年間下宿した。ぼくが大学、就職、海外赴任と、故郷を離れながら、両親がまがりなりにも暮らしてこれたのは、彼らがいたからだ。ぼくたちは、同居はしてはいないが、大家族のように過ごしてきた。 

 

家族の日のロシア民謡の集いのために、病院の講堂には多くの老人患者と、その家族が集まった。妻と夫、母と息子、父と娘、さまざまな組み合わせの家族が、大柄なロシア人歌手の歌声に聞きいっている。患者たちの表情を見ていても、彼らがどのような感情にさらされているかはうかがいしれない。独語をする老人、石像のように微動だにしない老女。

 

母親も、昼食からずっと車椅子のせいか、疲れたを繰りかえす。自分が親しんだロシア民謡にもさほどの関心を示す気配がない。

 

母親は、歌が好きだった。女学校を出て、小学校の教師だったモダン派で、子供の頃に、父親の違和感を押し切って、ピアノを習ったのも、母親の影響だった。「君よ知るや、南の国」「時の翼に」などの歌曲などを、ピアノを伴奏しながら、ぼくに教えた。きれいな声だった。モダンで、きれいな母親をぼくは愛し、誇りに思った。

 

金髪の愛嬌のあるロシア人女性が、日本語で、ともしびを歌い始めた。当時、ロシア民謡などを歌い、人気絶頂だったダーク・ダックスという男性ボーカルグループがいた。ともしび、カチューシャ、黒い瞳などの、ドーナツ盤のレコードが鮮明に記憶に残っている。ともしびは、母親が愛し、良く歌った曲の一つだった。


ともしび ダークダックス

 

母親の横顔をそっと見た。でも、表情には、車椅子に長時間座らされている不満のようなものしかうかがえない。明るく、美しかった母親の記憶があふれて、胸がつまった。多くの母と息子、妻と夫たちが、その旋律にあわせて身体をゆらしたり、口ずさんだりしている。多くの息子たちや夫たちの記憶の中の美しい母親と、その明るい歌声が講堂中に交響して、ぼくの心を揺さぶった。

 

父親のつらそうな低い声がよみがえる。

 

「かあさんが壊れていくのをみたくない。」

 

叔母と眼が合った。涙ぐんでいた。

 

父親は、組合運動など、こわもての外面だったが、内面はとても優しい人だった。特に、人の生死に弱かった。

 

彼の母親、すなわちぼくの祖母が死んだ時に、父は母の最期を看取るのを拒否した。祖母は、死ぬ数週間前まで、元気に自宅で過ごした。年末に体調を崩し、入院した。当時、東京で働きはじめていたぼくは、年末の帰省しており、帰京するあいさつに病院を訪れた。また来るからねと、別れて帰った自宅に、祖母の様子が急変したという知らせが入った。

 

祖母のベッドの横には、母と、叔母と、ぼくがいた。父親は病室の外のベンチに座っている。祖母は既に昏睡状態になり、当時看護婦だった叔母は、もう駄目とつぶやいた。遠くの街からかけつける叔父、叔母に生きている姿を見せたいためだけの延命状態になった。父親は、病室に入るのを嫌がった。もう駄目なのだろう、だったら、自分は、暖房を入れておくと、叔母や母の批判の眼を振り切って、自宅へ戻っていった。

 

「兄さんは昔から弱虫なんだから」と叔母が笑いながら呟いた。

 

結局、母と叔母とぼくが、最期を看取った。

 

父は母を愛していた。知的で、活発でモダンな母親を愛したのだろう。だからそ、現実に眼を向けたくなかった。母親の物忘れや、早期の痴呆のような状態はかなり早い時期から始まっていた。互いに耳が遠くなって、コミュニケーションが疎遠になってくるにつれて、その度合いは強まった。一緒に住んでいるが、父親は書斎、母親は居間と、会話もそれほど多くはなくなっていた。正月や夏休みに帰省する、ぼくたちの方が母親の状況をつかんでいた。誰かが外出すると、家にいま、誰がいるかがわからなくなる。孫娘は受験で帰郷していないのに、彼女を呼びに二階へ来る。

 

実家の二階で昼寝している部屋に、母親がやってきたことがある。

 

「かあさん、パーになっちゃったよ。お前が来ていることまで忘れていた。」

 

畳の上にぺたんと座り込んだ母が途方に暮れた顔をした。

 

「母さんが壊れてきた。」と悲痛な声を父が上げたのは、そんな状況をぼくたちが認識しはじめてから数年後のことだった。ぼくたちは、父がそれを気づいていなかったことの方に驚いた。

 

今回も、父親は、苦手なことを放り出した。結局、今回も結果を看取るのは、ぼくと叔母になった。

 

1時間近くのコンサートが終わり、ロシア女性が、患者の一人一人と握手をして回りはじめた。母親はしまいには、もう疲れた疲れたと不機嫌そうで、叔母も、あんなに歌が好きだった人が、もう、そんな感情がなくなっちゃったんだねとさびしそうな顔をした。 

 

大柄で愛らしい歌手が、近づいてくると、母親が突如、自分から手をのばして、彼女の手を強く握り締めた。

 

「本当に素敵な歌でした。またお会いできればと思います。」

 

母は、強く握り締めた手を離そうとしなかった。母の眼には涙が溢れていた。

 

「いい歌だったね。胸が一杯になった。」と母が言う。

 

突然の母の感情の奔出に、叔母夫婦も妻も涙ぐんでいた。

 

母親が、昔の母親じゃないことは否定できない。父親の言葉を借りれば、母は、日々、壊れたり、少し、治ったりを繰り返しながら、ゆるやかに坂を下っている。でも、それにつきあうのは、決して、暗いばかりではない。ゆるやかに坂を下りながら、ぼくたちは、通り過ぎてきた道をあたたかい気持ちで振り返っている。

 

父さん、思うほど、辛いばかりじゃないよ。

 

叔母と母親が見詰め合って、微笑みあっている。