惑星の時間

心の問題をいつも考えています

時には父のない子のように(2005年6月)

今年の誕生日に、父親からの祝いの電話はこなかった。

 几帳面な父親は、ぼくたちが海外にいた期間も、前日の夜か当日の朝に、誕生日を祝う電話をかけてきた。家族たちも、父親のこういった几帳面さと正確さにいつも感嘆していた。そもそもが、几帳面な人ではあったが、そういった正確さを保つためのシステムを一切持たなかったわけでもない。

 

葬儀が終わり、父親の書斎を片づけていた。父親は若い頃から大量の日記を残している。特に、ぼくが海外赴任をしていた20年前ぐらいから、5年日記をつけている。1ページに5年分のその日があるのだ。その意味で、誰かの誕生日を、ページの上に書きこんでおけば、5年間、その日を忘れることはない。とにかく用意周到な人だった。 


カルメン マキ 「時には母のない子のように」

彼はその周到さで自分の喪の準備を数十年間続けていた。

 

ここ最近のぼくとの対話のほとんどは、自分たちの終わりについての準備の話だった。70代くらいから、そんな会話の頻度は高くなってはいたが、母親が倒れたり入院したり、自分の肺の状態が弱ってきてからは、その切実さは増した。 

 

書斎にあった黒塗りの立派なノートに、喪の準備として、密葬にせよ、院号はいらないと書きこんであったが、そのあとは、白紙のままだった。

 

急逝した日の前日も、普通と変わらず、ぼくや自分の妹や弟(ぼくの叔母や叔父)と、携帯電話で話していた。最後の日の日記には、体調が少し良くなっているようだと書きこんでいる。

 

最期の日も、いつもどおり早朝に起きて、居間の暖房を入れ、書斎のカーテンを開けたらしい。当日も、冷えこんだ冬の朝で、そんな冷気の中で、持病の肺気腫からくる呼吸不全を起こしたらしい。あわてて吸入器をもって、寝室へ戻り、そこで倒れ、息をひきとった。しかし、これは、あくまでも想像だ。死に目に会えなかったぼくや家族は、皆で、父親の日々の暮らしのパターンを思い出しながら、最期の瞬間を想像するしかなかった。ただ父親が、最後の朝も、いつものように几帳面に時間通りに生活を開始し、母への見舞いに行く準備の途中で倒れたという想像は、なぜか、ぼくたちの心をあたたかくさせた。

 

ただ、一人で死なせてしまったという悔いだけはどうにもならない。

 

父親は、ぼくとの喪の準備の手順どおり、彼の望みである自分の家で、延命用の管などにがんじがらめにされることもなく、卒然と自分の人生を終えた。

 

その手順どおりがぼくにはつらい。

 

父親は最期の日々においても、引退後の数十年、くりかえしたリズムを一切崩すことはなかった。

 

親族、皆で、葬儀場へ向かうマイクロバスに乗りかけた時に、電話がなった。地元のなじみの本屋が、大手チェーンに押されて店を閉めたあと、しばしの落胆の後に、ようやく、見つけ、つきあい得る、と決めた書店からの電話だった。予約の本が届きました。

豚を盗む (光文社文庫)

葬儀が終わったあと、書店で、受け取ったのはカレル・チャペックの本と、太平洋戦争に参加した兵士の本だった。ああこれが、父親が最期に予約した本だ。

園芸家12カ月 (中公文庫)

その翌週、また電話がなった。同じ本屋だった。予約した本が届きましたという知らせだった。

 

書店の店頭で受け取ったのは、佐藤正午の「豚を盗む」というエッセイ集。店員に、あと予約しているものはありますかと聞くと、若い女性の店員がていねいに

 

「これで全部です。」

 

父親は、日がな、書斎で読書をし、昼寝をし、母を見舞いがてら、書店へ立ち寄るという生活をくりかえした。

 

葬儀が終わり、49日が終わりと、喪の儀式を経る中でも、父親の死という現実への実感がどこか希薄だ。父親は忽然と天空に消えてしまった。 

 

もともと離れて暮らしていたわけで、週何回かの電話がなくなったということぐらいが現実の違いだ。

 

父親がいなくなったということが、ぼくの精神にどう影響を与えるのかをいまのところじっと観察している。耳をすまして、神経をはりめぐらせて、ぼくに、起こったのは一体何なのかを思っている。

 

いつもならかかってくる父からの電話がないこと。それが、最初の喪失感だった。