時が癒すもの(2005年10月)
時間が経つのは早い。
それは、哀しみであると同時に救いでもある。
父親が急逝してから、8ヶ月が経った。
故郷に帰省した。早めの1周忌を行うためだ。
北国は、
少しずつではあるが、秋から、初冬への装いをみせはじめていた。
Georges Moustaki: "Il est trop tard"
今は、誰も住むもののいない実家に、親戚の叔父、叔母が集まってきた。
本当だったら、夏に、父の生まれ故郷の墓へ、納骨をする予定だった。
ただ、都合があって、それは来年まで延びた。
父の仮住まいは、地元のお寺にしつらえられた、小さな仏壇の中である。
床から、しんしんと寒さが上がってくる、広い本堂に、お経を読む声が響く。父親の遺影は、いつもどおり笑っている。皆が良い写真だと言う。
まだ子供たちが幼かった頃に、父と母、そしてぼくたち夫婦、そして孫たちみなでとった家族写真の中から、選んだ。
ゆったりとした笑顔だ。遺影に使ったあと、葉書版にして、親族へ送った。その中の一枚が、東京の僕の家の居間でも笑っている。
母親は、一周忌の場にはいない。彼女は、東京の療養性病院に入院している。
納骨が延びた事情のことだが、8月の納骨のために、父の故郷の漁村にあるお寺に連絡し、親族郎党の宿泊の段取り等をすべて済ましたある夜のことだった。
母の病院から電話があった。
急変することはないと思うのですが、お母さんちょっと風邪をひいて、その後、痙攣が出ています、脳梗塞の影響かどうかについては、明日の朝にならないと判明しません、大事には及ばないとは思うのですが、医師からの連絡があるかも知れませんのでよろしくという内容だった。
時計は9時を廻っていた。妻と相談したが、家で、待っていても仕方がない、病院へ行こうということになった。
家に帰る通勤客の流れと一緒に、病院へと向かった。
10時過ぎに病院へと着いた。医師は診察中なので、少しお待ちくださいと、病室の近くの、暗く、誰もいない、談話室に座った。看護士の青年がお茶をいれてくれた。
小一時間ほどして、若い当直医が、説明に来た。
今の痙攣が風邪の熱からくるものか、または、再度、脳内出血を起こしたためのものかは、今の段階ではわかりません。
この病院では、明日の9時ぐらいまで、その検査ができないので、その時間を待つか、精密検査を即座にやってくれる、大きな病院へと救急車で連れて行くかを判断してくださいという内容だった。
医療関係に勤めていた義理の叔父に携帯電話で連絡をし、相談した。
万が一ということもあるので、救急車で移送することにしたと、医師に告げると、わかりましたと執務室に戻り、電話をかけはじめた。
考えてみれば、こういった万が一の対応が迅速にできるように、母を東京へ呼んだのだ。そこで優柔不断な判断をしていては、悔いが残ると思った。
若い医師が戻ってきて、近隣でもっとも大きい医療センターの脳外科に移送することにしましたとぼくの眼を見て言った。
母は救急車、ぼくたちは、タクシーでその病院へと向かった。
医療センターへ着くと、直ぐに検査が始まった。
ぼくたちは、救急用入口の近くの狭い待合室で、待った。救急センターでもあるその病院へは、11時を過ぎても、患者や、当直の看護士たちが、ひっきりなしに出入りしている。
1時を過ぎた頃に、担当の医師に呼ばれた。
脳内出血はないので、あと、風邪に伴う、肺炎等のリスクがないようであれば、一日二日ここに入院して、そのあと、従来の病院へ戻ることができると思うという発言だった。
安堵した。
ただ、血液検査等その他検査はすぐには終わらないので、明日の、午後一番で、また来て欲しいということだった。
集中治療室に母を運びこんだあとに、ぼくたちは病院をあとにした。
翌日の医師のトーンは少し違っていた。
脳内出血はないのですが、血液の状況があまり良くありません、肺炎になるリスクを避けるためにも、しばらく入院の必要があります。
そのあと、一拍、間をおいて、40代はじめぐらいに見える脳外科の医師は、こう切り出した。
高齢の人の場合は、容態が急変することがあるので、あらかじめ、家族の方と緊急時にどうするかについての相談が必要になります。
具体的に言うと、肺炎などが急に悪化すると、呼吸が困難になり、そのため、呼吸させるための器具が必要になります。
そういった器具にも限界があり、最終的には喉を開いて、そこに直接器具を繋ぐ必要があります。
しかし、この状態になると、これは通常の治療ではなく、いわゆる延命措置の段階に入ります。器具によって命を永らえている状態です。
そのため、器具を取り外すことが、命の終りを意味することになるわけです。
このため、家族は、精神的に非常に困難な状況に置かれます。
私達は、そういった人工的延命措置をおすすめはしません。ただし、ご家族の意志を尊重しますし、延命措置を選ぶ方々もおられます。
昨日のトーンとの違いに、ぼくはショックを受けた。しばらく、考えさせてくださいと言って、屋外に出た。妻も蒼白な顔をしている。
病院に勤務していた叔父に電話をかけて、内容を説明した。叔父も、ことの急変に驚いていた。ぼくは、延命措置は避けようと思うと言った。
母とそんな話をしたことはなかったが、父親が生前、管だらけで死を迎えるのだけは絶対に嫌だといっていた言葉を思い出した。
叔父も、少し黙ってから、それが良いと思うといった。
義理の叔父は、妻の長兄である、ぼくの父親を、近くで長年見守ってくれていた。ぼくも、高校時代に下宿したこともある、親戚の中で、もっとも親しい一人だった。
海外出張、東京勤務と、故郷にいない、ぼくに代わって、両親を見守ってくれていた彼の意見は、ぼくには重かった。
ナースセンターへ戻り、担当医に、その旨伝えた。
脳外科医は、ぼくの眼を見て、わかりましたと一言言った。
それから、3週間余り、母は、この集中治療室で戦った。ぼくたちは、そのまわりで、ただ見守るだけだった。幸い、母親の生命力は強く、いろいろな数値が改善し、彼女は、元の療養性病院へと戻ることになった。ただ、こういった事情で、予定していた納骨のための帰省は見送りになった。最愛の妻の生命を父が優先するのは明らかだったからだ。
元の病院の看護士の人達のおかえりなさいという笑顔に迎えられ、彼女のリハビリがまた始まっている。
今回の入退院の前には、かなり回復して、動いていた彼女の左手は、残念ながら、またもとの状態に戻り、動かなくなっていた。動きはじめた手を、母は、自分の手とは認識せず、自分の孫たちの手だと思いこんでいた。やっかいな存在でありながら、彼女の孤独感を癒す存在でもあった。
かなり安定し、元通りの会話の状態に戻ってきたある日、母は、寂しいのよと言った。必ずしも要領を得ない会話の内容を総合すると、左手に宿っていた子供はどこかにいなくなってしまったらしいのである。左手の動きがなくなると同時に、騒々しい子供たちもどこかへ消えてしまったのだ。これは、ぼくにもショックだった。自分の身体としては意識できない左手が、人の心を癒すという不思議さに、ぼくたちも救われていたからだ。
左手の動きが戻れば、またあの騒々しい子供たちが、母のもとに戻ってきてくれるではないかというのがぼくの今の最大の希望だ。
お寺を出て、会食先のホテルへ向かう車の中で、叔母がぽつりと言った。
母さんは、父さんにお墓の中に入って欲しくなかったのかも知れないね、もう少し、自分の側にいて、助けてよって言ったのかも知れないねと笑った。
久しぶりに帰ってきた実家でも、ぼくは、何も感じない。
父親の気配は、一つの場所に固定されず、世界に遍在している。
病院でも、相変わらず、母親は、今、お父さん出て行ったばかりと、夫の存在を疑わない。
ぼくは、それを認知症のせいと、割り切ることもできない。オカルト的な意味ではないのだが、父は、ぼくたちのそばに存在している。
一番単純に愛された孫である中学3年の息子は、おじいちゃんがいなくなったという気がしない言う。たしかに、それが家族の実感である。
母親の、お父さんとさっき話したらという言葉の中で、ぼくたちは、父親と、家族という物語を反復している。
一周忌は終わった。
来年、暖かくなったら、その先のことを考えようと思っている。
父親が急逝し、母親を故郷から東京へと連れて行く過程で、家族、親族、知人の間で、それなりの緊張があった。緊張の度合いは、激しくはないが、その静けさと穏やかさの故に、その当事者であるぼくたちの精神には深くこたえた。
しかし、やはり時間が癒す部分というのは大きい。
一周忌のあとの会席の場で、皆の顔は優しい。父親の思い出を、やさしい顔で語り合っているし、老いた兄弟たちが、思い出を語り合えることの幸福をかみしているようだ。
いずれにせよ、死ぬ間際まで、妻の病院への見舞いを続けた父親は、最愛の妻が望むことを望むはずだ。
深く考える必要などはない。時間がすべてを決め、すべてを癒していくはずだ。ぼくたちは、その流れに従うだけだ。