惑星の時間

心の問題をいつも考えています

神楽坂ルクロモンマルトルはいつものように2007年4月

 

JRの飯田橋の駅を出ると、ひんやりとした花冷えのような黄昏が広がった。カナルカフェのある濠のまわりの外堀通り沿いの桜が満開で、そぞろ歩きの人の数も多い。もともと人気のある場所だった、神楽坂が、ついこないだ最終回を迎えた倉本聡の人気テレビ番組の影響もあって、休日とはいえ、観光客でにぎわっている。

 

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千葉の病院に入院している母親を、義理の妹たち(つまりぼくの叔母たち)が見舞った帰りに、皆で、神楽坂へ戻ってきて、いつものようにルクロモンマルトルで夕食をした。

 

ル・クロ・モンマルトル
〒162-0825 東京都新宿区神楽坂2-12 Ryol 神楽坂1F
5,000円(平均)1,900円(ランチ平均)

 

予約の時間には少々はやめだったので、カナルカフェの周辺の桜を見たり、神楽坂沿いの、小間物屋や、手作り靴の店や、お香の店などを皆でぶらぶらして、時間をつぶした。

 

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春といっても、夕方となると、まだまだ風は冷たい。

 

神楽坂を下って、コンビニの角を曲がり、パチンコ屋の前を通って、路地を折れたところにルクロはある。もう何年になるだろう。週末に散策していて、偶然入り、その気の置けない雰囲気が気に入り、足繁く通っている。繊細というよりは、味の輪郭のはっきりとした料理のよさもあるが、日本の大手ホテルの元ソムリエだったらしい、フランス人のオーナーの過度に踏みこまない、何気ない接客が好きだ。家族だけではなく、仕事仲間も連れてくるようになったが、皆、雰囲気や料理を喜んでくれる。

 

 

オーナーはいつもどおり、表情をあまり変えるでもなく、歓待の意を呈している。

 

夕方最初の客なので、まだ、店内はまばらだ。食前酒のシャンパンを飲んでいると、予約なしのお客が何組かやってきたが、さすがに土曜だけあって、予約で一杯のようだ。前から週末は当日の予約は難しくなっている。

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オーナーが、カスレは今週で最後だよと声をかけてくる。カスレというのは、豆や、ソーセージや肉のたっぷりと入った田舎風シチューで、中くらいの壷のような器に入っている。最初に、食べたときに、気に入って、何度か注文したら、カスレ好きの客ということになったようで、オーナーも、店の人からも、そろそろ、カスレの季節ですよとか、もうすぐ、カスレは終りですよと言われるようになった。


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いきつけで、メニューもほぼすべて試してはいるが、今日は、格別、カスレという気分でもなかったが、今年の秋までないとなれば、ということで、結局、カスレを注文した。アントレは、鶏砂肝のコンフィのサラダ。叔母たちや、ぼくの家族たちも、おもいおもいのお気に入りを注文している。子供たちは、この店のキッシュが好物だ。叔母たちはマグロのタルタルサラダやレンズ豆のサラダ。メインは鯛のポワレ、ホタテのソテー、鶏、牛とさまざまである。

 

赤ワインは、おじさん(家では、この店、ひそかにフランスおじさんの店と呼んでいる)に、何がいいといつものように聞く。まったくワイン通ではなく、飲んだワインを記憶するという習慣もないので、毎回、赤でしっかりとしたのとか、きわめて、大雑把に注文し、おじさんも、それだったらこれときわめて断定的に決めてくれる。それがいい。

 

以前、ワイン通らしい、若い仕事仲間を連れてきたとき、彼が選んだ高めのワインに、おじさんは、それだったら、この値段のワインで十分だよと、すすめたこともある。そんな、商売っ気のあるのかないのかわからないところが好きで通っている。長期戦略的には、きわめて賢明な戦略なのかもしれない。

 

以前「調理場という戦場」というベストセラーを書いた、三田のコートドールのオーナーシェフの斉須政雄さんが、幻冬舎新書の新刊で「少数精鋭の組織論」という本を出した。早速、読んでみた。自立するには、近道はないし、知らない方がいいという彼の持論がまた繰り返されている。

調理場という戦場―「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 (幻冬舎文庫)

 

器用な人間には続かないのが、料理人だという考え方である。

 

「近道があると、人はかならず近道を選んでしまいます。しかし、器用に修得した能力だけが能力ではないのです。まわり道をした人だけが宿している何かがあり、それこそが生き抜く術になるのです。(中略)

(料理の世界は)、実際にやることは地味な作業の蓄積です。朝から晩まで手仕事で、誤解を招くかもしれませんが多くの富を得られるような職業ではありません。だからぼくは「食っていければそれでいい」と思います。 

儲けに邁進するとギズギズしますし、非効率的だから価値を生み出せる職業です。」

 

 

成功すると、すぐ他店舗展開というようなビジネスの論理と、料理の論理とは必ずどこかで乖離が生じるというのは、ビジネスの勉強をしなくても、注意深いお客ならばすぐにでも気づくことである。斉須さんの、生き延びてきた料理人の友人たちを語るこんな部分に、料理というものの、レストランというものの生理がよく説明されている。

 

「慢心もない。商魂もない。表裏もない。これは自立して15年20年と最前線にいる友人たちの共通点です。友人たちは、信じている価値を、身ひとつでしぼりだしているような生き方でお店を続けています。開店や解雇の修羅場も、恵まれない時もくぐりぬけて満身創痍ですから、それぞれその人にしかにない変な持ち味を宿しているのです。理屈や上手下手ではない、生理がこめられた、また食べたくなる料理が出てくる。」

 

 

そんなに食通でもないし、食通という存在に対する、心理的反発もどこかであるので、そんな見方でレストランに対してきたことはないが、少なくとも、自分がくりかえし行く店にはまぎれもない共通点がある。お客の側から見たら、いきつけになるレストランというのはシンプルなものである。切れ味の良い料理だけが残っていくのではない。

「性格、野心、交友関係・・・料理人が転ぶ要素はいくらでもあります。バランスのよくない生き方は危険です。「強い個性」を出すのは簡単ですが、なぜそれが続かないかを考えなければ・・・そこに生き残る理由があるのだし。大事なことは、愛される料理であるかどうかで、お客さんに愛されていない料理は埋もれて飽きられて消えてゆく。それが大半の料理の運命です。」

 

料理も他の仕事にも共通することがある。最後は、その人間のすべてが問われるということだ。だからこそ、奇策に走る必要もなく、自分のリズムで自分のやり方で近道をあえて選ばないという「無様でありのままの生き方」でいいのだ。


越路吹雪 モンマルトルの丘 1955 / Complainte De La Butte

 

定番のデザート、ガトーショコラ、チーズケーキなどをそれぞれが楽しげに選ぶのを観ながら、そんなことを考えていた。

美味礼讃 (文春文庫)