惑星の時間

心の問題をいつも考えています

ともしび(2005年6月)

 

夜霧のかなたへ、別れを告げ

雄々しきますらお、いでてゆく

窓辺にまたたく、ともしびに

つきせぬ乙女の 愛の影 

 

大柄で美人のロシア人歌手が、ピアノを弾きながら、ともしびを歌い始めた。ぼくは、病院の講堂で、車椅子に座った母親の左手を握っている。母親はぼくの指をにぎったりはなしたりしている。

 

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母親の入院する老人病院では、月に一度、家族の日をもうけ、音楽会などを開催する。入院患者は、痴呆性の患者から、寝たきりの患者まで千差万別である。家族とのふれあいの機会を作るという治療の一環だ。

 

故郷の街から、父親の最期を一緒にみとった、叔母夫婦が、訪ねてきた。母親を故郷から連れてきて、2ヶ月がたった。 

 

気丈だが、涙もろい、看護婦あがりの叔母は、久しぶりにみた義姉の老いた姿に涙ぐんだ。叔父も叔母も、自分たちを母親が認識するかどうかを心配していた。叔父は、東京にやってくるのに、母さんが、見間違えると困るから、いつもの恰好をしてきたよと、トレードマークのゴルフ帽をかぶっている。

 

母親は、突然なので、驚いていたが、すぐに忘れるわけないでしょうと、何十年も、彼女と、父親の暮らしを側で見守った叔父夫婦に笑った。

 

小姑と嫁の関係も半世紀を超えると、なんともいえぬ熟成をしてくる。80代の母親にとって、70代の叔母は、もっとも信頼している家族だが、いつまでたっても小姑なのであり、その関係が、表面に浮いたり、沈んだりするさまが、傍目には面白かった。特に、認知症がすすむなかで、母親のもともとの性格が現れる度合いが強まると、小姑、嫁の関係を反映するような辛口のコメントが出てくるようになった。かといって、一番頼りにしてきたのも叔母なのだ。 

 

子供のいない叔母夫婦に、ぼくは可愛がられた。高校の時には、父親の赴任先からは遠いということで、叔母夫婦の家に3年間下宿した。ぼくが大学、就職、海外赴任と、故郷を離れながら、両親がまがりなりにも暮らしてこれたのは、彼らがいたからだ。ぼくたちは、同居はしてはいないが、大家族のように過ごしてきた。 

 

家族の日のロシア民謡の集いのために、病院の講堂には多くの老人患者と、その家族が集まった。妻と夫、母と息子、父と娘、さまざまな組み合わせの家族が、大柄なロシア人歌手の歌声に聞きいっている。患者たちの表情を見ていても、彼らがどのような感情にさらされているかはうかがいしれない。独語をする老人、石像のように微動だにしない老女。

 

母親も、昼食からずっと車椅子のせいか、疲れたを繰りかえす。自分が親しんだロシア民謡にもさほどの関心を示す気配がない。

 

母親は、歌が好きだった。女学校を出て、小学校の教師だったモダン派で、子供の頃に、父親の違和感を押し切って、ピアノを習ったのも、母親の影響だった。「君よ知るや、南の国」「時の翼に」などの歌曲などを、ピアノを伴奏しながら、ぼくに教えた。きれいな声だった。モダンで、きれいな母親をぼくは愛し、誇りに思った。

 

金髪の愛嬌のあるロシア人女性が、日本語で、ともしびを歌い始めた。当時、ロシア民謡などを歌い、人気絶頂だったダーク・ダックスという男性ボーカルグループがいた。ともしび、カチューシャ、黒い瞳などの、ドーナツ盤のレコードが鮮明に記憶に残っている。ともしびは、母親が愛し、良く歌った曲の一つだった。


ともしび ダークダックス

 

母親の横顔をそっと見た。でも、表情には、車椅子に長時間座らされている不満のようなものしかうかがえない。明るく、美しかった母親の記憶があふれて、胸がつまった。多くの母と息子、妻と夫たちが、その旋律にあわせて身体をゆらしたり、口ずさんだりしている。多くの息子たちや夫たちの記憶の中の美しい母親と、その明るい歌声が講堂中に交響して、ぼくの心を揺さぶった。

 

父親のつらそうな低い声がよみがえる。

 

「かあさんが壊れていくのをみたくない。」

 

叔母と眼が合った。涙ぐんでいた。

 

父親は、組合運動など、こわもての外面だったが、内面はとても優しい人だった。特に、人の生死に弱かった。

 

彼の母親、すなわちぼくの祖母が死んだ時に、父は母の最期を看取るのを拒否した。祖母は、死ぬ数週間前まで、元気に自宅で過ごした。年末に体調を崩し、入院した。当時、東京で働きはじめていたぼくは、年末の帰省しており、帰京するあいさつに病院を訪れた。また来るからねと、別れて帰った自宅に、祖母の様子が急変したという知らせが入った。

 

祖母のベッドの横には、母と、叔母と、ぼくがいた。父親は病室の外のベンチに座っている。祖母は既に昏睡状態になり、当時看護婦だった叔母は、もう駄目とつぶやいた。遠くの街からかけつける叔父、叔母に生きている姿を見せたいためだけの延命状態になった。父親は、病室に入るのを嫌がった。もう駄目なのだろう、だったら、自分は、暖房を入れておくと、叔母や母の批判の眼を振り切って、自宅へ戻っていった。

 

「兄さんは昔から弱虫なんだから」と叔母が笑いながら呟いた。

 

結局、母と叔母とぼくが、最期を看取った。

 

父は母を愛していた。知的で、活発でモダンな母親を愛したのだろう。だからそ、現実に眼を向けたくなかった。母親の物忘れや、早期の痴呆のような状態はかなり早い時期から始まっていた。互いに耳が遠くなって、コミュニケーションが疎遠になってくるにつれて、その度合いは強まった。一緒に住んでいるが、父親は書斎、母親は居間と、会話もそれほど多くはなくなっていた。正月や夏休みに帰省する、ぼくたちの方が母親の状況をつかんでいた。誰かが外出すると、家にいま、誰がいるかがわからなくなる。孫娘は受験で帰郷していないのに、彼女を呼びに二階へ来る。

 

実家の二階で昼寝している部屋に、母親がやってきたことがある。

 

「かあさん、パーになっちゃったよ。お前が来ていることまで忘れていた。」

 

畳の上にぺたんと座り込んだ母が途方に暮れた顔をした。

 

「母さんが壊れてきた。」と悲痛な声を父が上げたのは、そんな状況をぼくたちが認識しはじめてから数年後のことだった。ぼくたちは、父がそれを気づいていなかったことの方に驚いた。

 

今回も、父親は、苦手なことを放り出した。結局、今回も結果を看取るのは、ぼくと叔母になった。

 

1時間近くのコンサートが終わり、ロシア女性が、患者の一人一人と握手をして回りはじめた。母親はしまいには、もう疲れた疲れたと不機嫌そうで、叔母も、あんなに歌が好きだった人が、もう、そんな感情がなくなっちゃったんだねとさびしそうな顔をした。 

 

大柄で愛らしい歌手が、近づいてくると、母親が突如、自分から手をのばして、彼女の手を強く握り締めた。

 

「本当に素敵な歌でした。またお会いできればと思います。」

 

母は、強く握り締めた手を離そうとしなかった。母の眼には涙が溢れていた。

 

「いい歌だったね。胸が一杯になった。」と母が言う。

 

突然の母の感情の奔出に、叔母夫婦も妻も涙ぐんでいた。

 

母親が、昔の母親じゃないことは否定できない。父親の言葉を借りれば、母は、日々、壊れたり、少し、治ったりを繰り返しながら、ゆるやかに坂を下っている。でも、それにつきあうのは、決して、暗いばかりではない。ゆるやかに坂を下りながら、ぼくたちは、通り過ぎてきた道をあたたかい気持ちで振り返っている。

 

父さん、思うほど、辛いばかりじゃないよ。

 

叔母と母親が見詰め合って、微笑みあっている。

学校の英雄

故郷の両親を弔って以来、めっきり北海道との縁も薄くなったように感じていたのだが、札幌のサッカークラブ、コンサドーレがJ1に昇格して、年々着実な成長を遂げる中で、関東近辺でのアウェイのゲームで、ゴール裏に応援に行くことが増えてきた。

 

子どもの頃からサッカー好きだった息子の影響もある。ただ息子からすれば、北海道生まれでもなく、関東のチームを応援する方が自然だったのだが、たまたま、連れ立って、蘇我フクダ電子アリーナに観戦にいった昇格のかかったジェフ市原戦で、当時コンサドーレに在籍していた内村の放った劇的なゴールに痺れてコンサドーレを応援するようになった。

 
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アウェイ席で大声を上げる息子の背中を見ながら、昔の記憶がよみがえった。

 

ある日、妻が当時中学生だった息子の機嫌がやけに悪いと話しかけてきた。ティーンエージャーの日々の機嫌に付き合うほど暇ではないが、理由は知りたいと思った。

 

息子は幼稚園の頃からサッカー漬けだ。妻によれば、サッカー部でレギュラー落ちしたらしい。それもスポーツ校で、何十人も部員がいるところならいいのだが、受験校のそんなに人数の多いところではないから、微妙にプライドを傷つけられたのだ。

 

彼には、サッカーに対する純粋な愛がある。ただひいき目にみても、スポーツ能力はひとなみ以下の父親の血しかひいていない。

 

小学生の頃はそれでも、先行者利得のようなところがあって、チームではいつもレギュラーだった。中学くらいから、身体能力の影響が大きくなる。はじめたのが遅くても、足が速かったり、体力があったりすれば、その努力や愛情とは別なところで、レギュラーというものが決まりだす。

 

学校スポーツは教育だとはいっても、やはり勝負ということにこだわりはじめれば、性格や、真剣さだけでなく、やはり身体能力のようなものが評価されはじめる。

 

どうも、そんな微妙なところに、息子はいたのだ。

 

学校の英雄というタイプの人間がいる。野球選手、今ならサッカー選手、ギターの弾ける奴、女にもてる奴。しかし、幼稚園、小学校、中学校あたりまでは、圧倒的に脚の速い奴だった。当然運動会では一等賞をとり、クラブ活動でも4番でエース。彼はめぐまれた身体能力によって、自分をとりまく世界を支配し、スポットライトを独占する。そんな奴をうらやましく思わなかったといえば大嘘になる。 

 

アーウィン・ショーの短編集「夏服を着た女たち」(常盤新平訳・講談社文庫)の中に「80ヤード独走」という傑作がある。 

 

夏服を着た女たち (講談社文庫)

男は大学のフットボールの花形プレーヤーだった。彼がボールを抱えて80ヤードを独走した時、世界のすべてが彼の息遣いをみつめていた。 

 

彼は、その栄光を背景に自分のファンの同級生と結婚し、彼女の父の経営する会社に就職する。世界は彼を祝福していた。

 

15年後、この主人公は彼の出発点だった母校のグラウンドに立っている。 

今、彼は、背広のセールスマンだ。1929年は彼のもとにも平等に訪れ、義理の父の会社は破綻し、父はピストル自殺をした。彼は、さまざまな職を転々とする。 

 

妻は、ファッション雑誌社に勤めるようになり、作家、戯曲家たちとの交友を持つようになる。妻が好むクレーの絵も、妻の友人たちの会話に出る新作のアバンギャルド演劇はちんぷんかんぷんだ。アルコールの量だけが徒らにふえ、都会的洗練の度合いと自立性を深めた妻は、彼から離れつつある。

 

「15年前、まだ20歳で、死から遠くへだたった秋の日の午後、大気が楽々と肺にはいってきて、自分は何でもできるし、誰でもやっつけることができるし、追い抜かねばならないときは、かならず追い抜いて見せるという根強い自信が彼の内部にあった。(中略)その後にあったすべては、ひとつの没落であった。ダーリングは声を上げて笑った。たぶん、僕はまちがったことを練習したのだ。彼は、1929年やニューヨークの街や、女に変わる娘のために練習しなかったのだ。」(常盤新平訳) 

 

大学のフットボールのスターであったということを売り物に背広を販売する、どさまわりのセールスマンになった、35歳の彼は、失意の中で、栄光の場所を疾走する。そんな彼を不審そうにみつめる後輩の若い学生たちに、僕は昔ここでプレイしたことがあるんだと、言い訳をしたあと苦笑する。そんなほろ苦い掌編である。 

 


Longest Runs in NFL History (90+ yards)



ぼくの少年期は、こういったヒーローたちの影にあこがれ、嫉妬するという時代だった。

 

小学生時代、小さな学校に通っていた。当時はなんといっても野球だ。ぼくの学校は人数が少なかったので、2番2塁という、小学校時代だとかなり微妙なポジションながら、レギュラーになり、監督の采配の妙よろしく、地元の大会で優勝した。 

 

その栄光を忘れられず、中学でも野球部に入部した。ぼくがいった中学は比較的規模が大きな学校だったので、部員数も多かった。同じくらい微妙な6番2塁というポジションを争った。問題は、ぼくが補欠で、不動のレギュラーがいたことだ。ぼくは、練習に練習を重ねた。監督は、その努力を評価してはくれたが、対外戦では、なかなか試合に出してくれなかった。 

 

父親の転勤の関係で、中学3年を前にして、転校が決まった。2年の新人戦が、ぼくがそのチームでプレイできる最後の機会だった。監督は、最後の試合だから、みんなに参加の機会を与えたいというようなことを言っていた気がする。 

 

試合は接戦で、最終回になった。ぼくはベンチで気が気ではなかった。1点差でリードされ、二死1,2塁だったような記憶がある。打席には、6番2塁のレギュラーN君。監督から、素振りをしろと言われた。ぼくはてっきり、彼に代わって打席に立つのだと思った。バットを持って、ベンチを飛び出したぼくに、監督は、Nが出塁したら、その次の代打だと言う。ぼくは落胆した。しかし、彼が打席にでることをバッティングサークルで祈った。N君が降った打球は、内野に飛び、三塁ホースアウト。ぼくの新人戦は終わった。 

 

最終回2アウト。最後の打者が出塁したあとの、代打候補。それに比べれば、お前の方がもう少しましな気はするよと、食卓で不愉快そうに食事をしている息子に語りかけようとしたが、やめた。彼が感じている不愉快さは彼なりに解釈し、彼なりに咀嚼するしかないものだ。 

 

彼も、ぼそぼそと、指導者の能力に対する批判などを言うこともある。まあ、どんなに優秀な上司でも、自分を評価してくれない上司は厄介なものだ。

 

同僚と比較して、自分の能力はこんなものなのだから、今の評価は妥当なものであると納得する部下などはいない。

 

新人戦が終わったあと、ぼくは、憎悪に近い気持ちを、監督と、レギュラーに抱いたはずだ。補欠の常連だった友人が、少々悪意を持って、おまえとレギュラーの差は客観的にもあったと言った時には、殴ってやろうと思った。でも多分、彼が正しかったのだろうし、監督が、最後の新人戦に良い記憶を持たせてやりたいと思うほど、ぼくと彼の間に親密な関係があったわけでもないので、傍目には当然のどこにでもある話なのだろう。


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ぼくにひとしれず劣等感を与えながら、軽快に笑いながら走り去っていた友人たちの顔がたまに浮かぶ。彼らは今どうしているのだろう。

 

80ヤード疾走のようなヒーローたちの境遇にカタルシスを感じるだろうかと、自問してみた。そういう気分とは少々違うような気がした。 

 

結局、その後、小学校の徒競走や、新人戦でのレギュラーなど、初期の人生におけるハイライトを、拒絶された過去をひきずりながら、生きてきたような気がする。結局、自分が、レギュラーになれるゲームを常に探し続けてきたような気がする。だからこそ、いまだに闘争心を忘れずにいられるのだろう。それを幸不幸で判断するのは難しい。ヒーローたち、レギュラーたち、自分を使ってくれなかった監督たちに会いたい気がする。彼らは、おそらくもう初老や中年の普通の男たちに戻っていて、ぼくに与えた屈折のことなど、おもいだしもしないのだろうが。

 

高校のクラブ活動、大学受験、就職と、なかなか、自分の思うようにならない人生を送っている息子も20代後半だ。

彼の、親譲りのあらかじめ拒絶された栄光と、ぼくの失われた故郷への郷愁がまじりあって、ぼくら親子は、ゴール裏で奇妙なカタルシスを得ている。

人生というのは、案外、面白いものなのだ。

 

父への弔辞

 

「転勤なしという勤務形態がありえるんだったら、考えてみます。」

 

大学を出てすぐ就職した会社を10年前に辞めた。課長になった頃だった。会社にすれば、辞められると一番痛い時期だ。数ヶ月、慰留された。慰留というより、恫喝の気配も漂った。担当役員が、辞表を撤回させるのを生きがいにしている人(よく言えば愛情豊かな人)だったからだ。数ヶ月に及ぶ交渉の中で、何でも言うことを聞いてやる。どうしたらいいと言われた。考えに考えて、転勤なしを条件なら考えると答えた。当然、それは無理だった。無理をいうなよと哀しそうな顔をされた。恫喝は逆効果ということを見極めた名人芸半分、本心が半分だったろう。簡単にOKになりそうな条件を出すのはそもそも危ないと思っていたから、安心した。でも本心だった。

 

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転職の理由は、かなりの部分は、転勤をしたくないという点にあった。地方都市の教師の一人息子として生まれ、長年、高齢になった両親を置き去りにしてきた。7年近くの海外勤務の時には、60代半ばから70代半ばになる老親二人を日本に置くことになった。まさかのことがあれば、「死に目」に会えない。海外で生まれた孫二人を連れて帰国した時には、70代になった両親は安心し、他愛もないほど喜んだ。

 

もう海外赴任はできないと覚悟をした。数年の東京勤務の末に、海外赴任の可能性が浮上した。ぼくは、あっさりと、辞表を出した。当然ながら押問答が続き、最後にはこれもまた当然ながらその役員もあきらめてくれた。

 

それからまた10年が立った。父親は自分の家、自分の書斎で過ごすことを強く希望し、ぼくは、故郷で生計を立てる目処をつけることはできなかった。そのお互いの立場も十分理解しながら、父もぼくもともに漠然とした哀しみを共有しつづけた。

 

母親が70代後半から病気がちになり、物忘れがひどくなってきた。父親は、長年の喫煙のせいで肺が弱ってはいたが、生来の几帳面さで二人ぐらしを仕切っていた。両親が高齢化する過程で、帰省の頻度も多くなった。

 

ここ数年は、そんなこともあって、父親と良く話すようになった。

 

そんな父親が、話しづらそうに、自分の終末のシナリオについてしゃべりはじめた。少ないとはいえ、財産のこと、家のこと、母親のこと、墓のこと。

 

そんな内容の会話ばかりだったともいえる。

 

 

父親は、自分が先に死んだ場合、母親が先に逝った場合などを緻密に考えていた。

 

曰く、いけばなや茶道を長く教えていた母親の方が顔が広いから、かあさんが先に逝った時には、自分が喪主をつとめて、新聞に葬儀の案内を出して行う。ただし、自分が先に逝った場合は、退職して、数十年経ち、葬儀の案内を出せば、形式的な参列者だけが増えて、残ったおまえたちが苦労するだけだから、万が一お前が政治家にでもなるのじゃないんだったら、密葬にせよ。あとは戒名も、院号はいらない。彼の指示は克明で、死ぬ直前にはそのためのノートまで作成していた。黒塗りのノートの一枚目に、密葬の旨と院号はいらないがかかれていて、そのあと、数ページ、細かいことが書かれていたが、その後はさすがに自分でも嫌になったのか、何も書かれてはいなかった。父親が倒れる数週間前に母親が軽い脳梗塞で入院した。予後のリハビリ等を考えて、頭にメスを入れることにした。幸い手術はうまく行き、病院でのリハビリも始まった。

 

地元のケアマネジャーやヘルパーさんたちの世話を受けるようになっていた。母親の家事遂行能力が急速に落ちていったからである。ケアマネジャーにも、随分相談した。父と話し合った内容や、話し合えなかった内容も含めて、多くの可能性について話し合った。

 

経験豊富な彼女は、穏やかにこう言った

 

「皆さんいろいろな場合についてお考えになるんですが、高齢の方の場合、展開がとても速くて、結局、選択肢は急速に決まっていくものですよ。結局、当事者が何をしたいか、何ができるかだけを考えて、その場で判断していけばいいんです。」

 

 

東京に住んでいるぼくたちが、頻繁に帰るというわけにもいかなかったので、父親が、律儀に二日置きに病院を見舞うことを日課にした。ヘルパーさんたちが、きっちりとしたリズムのある生活なので、かえって張り合いがあるとお父さん言ってましたよと後で教えてくれた。父親らしいと思った。

 

ヘルパーのサポートはあるにしても、一人暮らしの老人となったわけで、ぼくは、母親の見舞いに帰省した折に、父親に携帯電話を持たせることにした。いまさら、携帯でもないなあといいながらも、万歩計の機能があって、それをぼくたちが、遠隔で確認できるということもあるんだったらと、携帯するようになった。

 

根が几帳面な人だから、常に持ち歩き、病院から帰ると母親の状態を簡単にぼくに報告するようになった。固定の電話より、聞き取りやすくていいと、これまでよりも、長電話をするようになった。一人になった寂しさもあったのだろう。気休めながら、少しは気持ちが落ちついた。

 

それから数週間が経った。

 

六本木の高層ビルでのミーティングに向かうエスカレータで、携帯がなった。妻からだった。

 

「お父さんに連絡がつかないの。病院にも行っていないし、今、叔父さんたちが家へ向かっている。」

 

父親の携帯をならしてみたが、返答がなかった。メールを送った。すると返信メールが、最後に使った時間である昨晩の夕方の時刻と、現時点での歩数を送ってきた。歩数0。冷たい数字が、冷え切った金属メスのようにぼくの内側に触れた。同僚に連絡し、ミーティングをキャンセルし、羽田へ向かうことにした。

 

羽田のチェックカウンターに近づく際に、携帯がなった。父親の名前が液晶に点滅した。急いで、着信ボタンを押した。

 

聞き覚えのない女性の声だった。

 

「お父さんお亡くなりになっていました。」

 

海外赴任を断念して始まったこの10年だったが、結局、ぼくは父親の死に目に会えなかった。

 

それからは怒涛の数週間だった。

 

入院中で、予後で認知障害の度合が強まっていた母親には、父親の死は伝えなかった。

 

密葬ということは、親戚、知人の間でも異論が多かった。この地域の教育に長年貢献したパブリックな人なのだから、きちんとすべきじゃないんだろうか等々。ぼくたちはとにかく、父親の遺志と母親の状態を勘案して、頑固に密葬にこだわった。密葬というのは具体的には葬儀公告を新聞に出さず、終了後に挨拶公告を出すということだった。

 

当日、密葬のわりには、元同僚、部下などを中心に多くの人が参列してくれた。

 

同じ本好きとして、比較的長い対話の歴史のある親子だったし、最後の数年は、喪の仕事を共同で行ってきたようなところがあるので、葬儀の際には、そんな父親にふさわしい挨拶をしなければならないと考えていた。棺の中には、星の王子様、賢者の黄昏、ルバイヤートの三冊を入れたこと。なくなる直前まで本屋に通うのを楽しみにしていたこと、葬儀に出発する直前にも、行きつけの書店から注文の書籍が届いたという電話があったこと。そのうち、あることに気がついた。葬儀の弔辞と喪主の挨拶は違ったものだという常識だ。ぼくはまるで親友の弔辞のような文面を考えていたのである。

 

スピーチの中で引用しようと思っていたオマル・ハイヤームの詩の一節は、こっそりと喪服のポケットにしまった。

 

ぼくはきわめて常識的な挨拶で父親の葬儀をしめくくった。

 

その後、母親を東京の近くの病院へと転院させた。毎週通える場所だ。また少し気休めになった。母親との人生は幸い今しばらくは続きそうだ。転院した事情や、父親の不在を、定かには認識していない。それを幸いにし、病室の母をぼくはただいまと訪れる。

 

そんな母親が、妻に

「お父さんもようやくこの場所に慣れたみたいよ。」

といったという。

 


千の風になって ~ 新井満

 

居間の食卓の横のサイドボードの上の、小さな写真たての中で、父親の遺影が穏やかに笑っている。少しは気分が楽になったろう、あと、かあさんは頼むよといっているような気がする。気分が楽になったことへの後ろめたさは一生消えない。

 

最高の親友であった父親への弔辞はまだ読み上げられずにいる。

モリオカの友人

年末に、大手術をした、大学時代の友人の見舞いに行った。大学で物理学を教えている独身の友人は、術後も、いつもどおりの平穏な表情を浮かべていた。安心した。長く、不眠症等に悩まされているが、彼の内心は単純には外には現れてこない。しかし卒業後何十年もつきあいが続く数名の仲間内の中ではその平静な物腰がずっと愛されている。

 

数年前に、皆で彼の故郷を訪ねた。岩手県盛岡市だ。

 

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ユーミンの「MORIOKAというその響きがロシア語みたいだった」というフレーズや、宮沢賢治やら、長い間、一度は訪れたいと思っていた街だった。


彼はいつもの平静さと、驚くべき周到さで、僕たちをたっぷりともてなしてくれた。古い温泉宿の窓から見上げた星空や北上川沿いの風景など多くの記憶が残った。

 

お互い、そこそこの齢になったので、こんなことがあると、いきおい会話はこれからどうするという話になる。

 

ぼつりと「そろそろ盛岡に帰りたいと思っている」。

 

「それはいいな。いつでも盛岡に遊びにいけるようになる」。

 

友人の表情の端にほんの少し笑いが浮かんだ。

 

幸田一族の女たちの文章が好きである。その繊細さと清潔さにはまぎれもない一族の文士としての高潔さが受け継がれているからだ。

 

青木玉が盛岡のことを短いエッセイに書いている。

 

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『朝方ひと降りしたそうで、盛岡の街はしっとり空気が冷えていた。雲切れがして日が差し、駅前の街路樹の葉はまだ青く、房になった赤い実は花とは別の鮮やかな色を見せている。聞けばななかまだという。ななかまどは山にある木だと思っていたが、それが並木に使われているのは珍しい。北の土地に育つ木の出迎えを受けた気がした。

 

街の中心部、県庁などの新しい建物が並ぶ通りをちょっと入ると、昔の面影を残した木造の洋風建築物が残されていた。これらの建物を囲んで木々の緑が厚く、新旧がよく調和してゆったりした時を保っている。

 

用が終わって一休みさせてもらった明るい部屋の前を川が流れている。河原が広く、水は寄ったり分かれたりして流れている。土地の方がこの川を鮭がもうじきあがってきますよと言う。鮭の上る川、鮭はこの川上で生まれ遠く旅して、迷わず生まれ育った川の匂いを頼りに戻ってくる。故郷を厚く慕う魚なのだ。ぎゅっと、心を締め付ける情が湧いた。

 

(中略)

 

信号で車が止まった。前方に橋がある。鮭のことが頭にあって、橋に駆け寄って川を見た。都市の川にしては水量が豊かで勢いがあり、水面は強くうねり川底の複雑さが思われる。この川は北上川、さっき見たのは中津川、駅を出てすぐ右手から雫石川の三本が合流して北上川の大きな流れになってゆく。またしても時間があったらと思いながら、御礼を言って駅の階段を駆け上がった。新幹線の窓におでこをくっつけて見損なうまいとした。三本の川は自然に寄り添って遠く流れ去った。盛岡は北の国、人も鮭も、ななかまどの赤い実も、胸に染みる懐かしさである。』

 

三本の川の畔を皆でぶらぶら歩いた時の記憶がよみがえる。この河の畔の街は、よそ者にも得も言われぬ懐かしさを感じさせる街なのだ。

「言葉の誕生を科学する」は面白い

 

物事の起源を探るという構えは、おしなべて、うさんくさい。一言で言えば、すべて見てきたような嘘、見てもいないようなホラだからだ。

 

僕たちは、なんの準備もなく、無根拠に、この世の中に放り出される。それは個人であっても集団であっても類であっても種であっても同じだ。

 

にもかかわらず、僕たちは、自分のそして人類の起源が気にかかってならない。

 

最近、一念発起、中国語の文献をとにかく読んでみようと思った。その結果、すべての文字が漢字で表記されるという、膨大な漢字の大海、荒野を前に、茫然としながら、古代の日本人たちの絶望と断念と母語に対する決断を想像的に追体験した。

(土曜日なのに、言い方が、大袈裟になってしまう。)

 

母語の起源を考えていたら、さらに、連想は、言語そのものの起源へと横滑りした。

 

言語の起源を歌に見る科学者(岡ノ谷一夫)がいて、科学者という生き物に対して濃密な好奇心を持つ作家(小川洋子)がいた。

 

言葉の誕生を科学する (河出文庫)


シジュウカラの鳴き声 A song and a call of Japanese Tit

その二人が、言語の起源を語り合う対談集が、とてもエキサイティングだった。

 

科学者は言葉の起源を探るには、言葉のない世界にいったん遡る必要があると考えた。

 

言葉の前に、声、歌があった。発声を学習する動物が三種類いる。クジラ、鳥そしてヒトである。

 

当然、種の存続のために、オスはメスを求める。歌のうまい奴が多くのメスをひきつけ、繁栄する。

 

というような大きな仮説のもと、科学者は地下で活動するネズミやジューシマツの言葉以前のコミュニケーションの研究を続けている。

 

科学者には、そもそも、言葉(はなしことば、かきことば)に対する違和感がある。言語というものがコミュニケーションにとって不可欠ではないのではないかという思いだ。

 

人間はある特殊な遺伝子の組み合わせの結果、突然、言葉という異物を獲得することになる。そして、結局、この異物である言葉を得た瞬間からヒトの宿命が始まったと。

 

言葉の起源が15万年前、書き言葉に至ってはたかが1万年前に生まれた。

しかしこの言葉がヒトの宿命を加速させていく。

 

この仮説が、作家の物語への想像力を刺激する。

 

彼女のこんな妄想は、美しく、かつ哀切である。

 

「生物の中で唯一、言葉という奇妙な道具を手にしてしまった人間は、それ故に独自な進化を遂げた。時間を知り、神の存在を意識し、芸術を生み出し、自らを滅ぼす武器を作った。言葉を操ることによって生物界の頂点に立ったはずが、頂点の先にあったのは滅亡だった。この矛盾を生きているとしたら、人間とは何と可哀想で、けなげな動物であろうか。

 

あるいはこんな想像をしてみる。人類史上初めて言葉を喋った人間は、ある種の畏怖の念を抱いたに違いない。肉体の内側から出てくる、他のどんな種類の道具とも似ていない不可思議なもの。最初の人間はきっと恐れ、自問自答したはずだ。本当にこれを手にしてもいいのか、と。その恐れをもたらしたのが、滅亡の予感だった。野生の直感で、彼らは自分個人の死の先にある、ずっとずっと遠い死を予知しながら、新しい道具を受け入れた。」(小川)

 

 

人間の喜びも哀しみも幸福も、悲劇もすべて、言語という異物が齎したということなのだ。

 

そういった哲学的想念だけではなく、研究にかかわるエピソードがそれぞれ刺激的な対話集である。オススメの一冊だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本人は印象派が大好き

西洋絵画、特にフランスの印象派の画家たちへの日本人の愛情は深い。彼らが日本の芸術というものに示してくれた高い敬意のせいもある。

 

絵画芸術と言えば、僕が、最初に思い浮かぶのは印象派の画家たちだ。

 

画家たちの生涯を語る文章は多い。

 

しかし原田マハはその繊細で美しい短編集「ジヴェルニーの食卓」の中で、画家の活動を支えた画廊、画材店、パトロン、家族などの視線から印象派の時代を描いている。

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彼女が織りなす物語のアウラに包まれて、美術館や展覧会を散策してみたいと思った。

 

マティスに人生をささげる修道女についての「うつくしい墓」。

 

ジヴェルニーの食卓 (集英社文庫)

ドガの米国への紹介者であり、自らも優れた画家であったメアリー・カサットと若い踊り子の少女の人生と画商のデュラン・リュエルの矜持が痛切に交差する「エトワール」。

 

売れない時代のポール・セザンヌゴーギャンゴッホなどの作品を預かる代わりに絵具を無料で提供しつづけた画材商のタンギーとその家族。

 

パトロンの家族と、モネの長く、複雑な思いや政治家クレマンソーとモネの深い友情の歴史を描く「ジヴェルニーの食卓」。

 

絵画鑑賞というものに、豊穣な起伏と肌理を与えるのが良き物語であるということをしみじみと実感させてくれる傑作だった。

 

 

「明るく、強く、輝く色。力のみなぎった線描が、たちまち床の上に薔薇窓を出現させます。先生は、じっくりと長い時間をかけて、床の上を眺めておられます。あごひげに手をやったまま、何十分も動かないこともある。最初は、そのまま眠ってしまわれたのではないかと、こっそりのぞきにいったりもしましたが、そんなことはありません。ゆっくりと、ご自身が絵と完全に一体化する瞬間を、先生は待っておられるのです。」

 

(うつくしい墓)

 

 

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「あたしが彫刻になったら、世の中の人たちが、みんな、びっくりするだろうから…その彫刻も高く売れるだろうから、そうしたら、あたしにその売上をくれるって…きっと、あたしは有名になって、『エトワール』に抜擢されるだろう、って…」

 

(エトワール)

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5f/Van_Gogh_-_Portrait_of_Pere_Tanguy_1887-8.JPG

「あれをみて、なんていうか、こう、がつーんとやられてね。ああ、すごい時代がきた、これからは、芸術が世の中の流れを主導していく、社会を変えていくんだ。芸術には、ものすごい力がある。誰かの人生を変えるほどの力があるんだ、ってね。それで、決めたんですよ。なんでもいいから、これから出てくる画家を支えて生きる仕事をしよう。そのために店を開こうってね」

 

タンギー爺さん)

 

「広大な庭の中で、人工の作り物は、中央をまっすぐに貫く小径にかかるばらのアーチだけだった。できるだけ自然に近い形で、自由に、生き生きと草木を茂らせる。それがモネの庭作りの方針だった。

 

庭には花らしい花がいまはまだなく、ひっそりと静まり返っていた。小径の両側にはやがて本格的に春がきたら、そして夏になればなおのこと、さまざまな花々が咲き乱れる。ヒナゲシキンレンカスイートピールピナス、ボタン、リンドウ、チューリップ、シオン、クレマチス、ダリア、ツルバラ。そして、この庭の向こう側の敷地にも、もうひとつのすばらしい庭が、息を潜めて主の来訪を待っている。それは、睡蓮が群れて咲く、太鼓橋が架かった池のある「水の庭」だった。」

 (ジヴェルニーの庭)

 

傑作アルバムに織り込まれた巧みなライナーノーツがそれ自体音楽経験の一部になっていくように、言葉や文字で語られる物語は、まさに、画家やその周辺の人々の理想と犠牲によって生み出された美という瞬間を繋いでいく欠かすことのできない永遠の鎖の一筋なのである。こうした感動や美の瞬間を繋いでいくことの総称として僕たちは、芸術という言葉を使うべきなのかもしれない。