惑星の時間

心の問題をいつも考えています

父への弔辞

 

「転勤なしという勤務形態がありえるんだったら、考えてみます。」

 

大学を出てすぐ就職した会社を10年前に辞めた。課長になった頃だった。会社にすれば、辞められると一番痛い時期だ。数ヶ月、慰留された。慰留というより、恫喝の気配も漂った。担当役員が、辞表を撤回させるのを生きがいにしている人(よく言えば愛情豊かな人)だったからだ。数ヶ月に及ぶ交渉の中で、何でも言うことを聞いてやる。どうしたらいいと言われた。考えに考えて、転勤なしを条件なら考えると答えた。当然、それは無理だった。無理をいうなよと哀しそうな顔をされた。恫喝は逆効果ということを見極めた名人芸半分、本心が半分だったろう。簡単にOKになりそうな条件を出すのはそもそも危ないと思っていたから、安心した。でも本心だった。

 

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転職の理由は、かなりの部分は、転勤をしたくないという点にあった。地方都市の教師の一人息子として生まれ、長年、高齢になった両親を置き去りにしてきた。7年近くの海外勤務の時には、60代半ばから70代半ばになる老親二人を日本に置くことになった。まさかのことがあれば、「死に目」に会えない。海外で生まれた孫二人を連れて帰国した時には、70代になった両親は安心し、他愛もないほど喜んだ。

 

もう海外赴任はできないと覚悟をした。数年の東京勤務の末に、海外赴任の可能性が浮上した。ぼくは、あっさりと、辞表を出した。当然ながら押問答が続き、最後にはこれもまた当然ながらその役員もあきらめてくれた。

 

それからまた10年が立った。父親は自分の家、自分の書斎で過ごすことを強く希望し、ぼくは、故郷で生計を立てる目処をつけることはできなかった。そのお互いの立場も十分理解しながら、父もぼくもともに漠然とした哀しみを共有しつづけた。

 

母親が70代後半から病気がちになり、物忘れがひどくなってきた。父親は、長年の喫煙のせいで肺が弱ってはいたが、生来の几帳面さで二人ぐらしを仕切っていた。両親が高齢化する過程で、帰省の頻度も多くなった。

 

ここ数年は、そんなこともあって、父親と良く話すようになった。

 

そんな父親が、話しづらそうに、自分の終末のシナリオについてしゃべりはじめた。少ないとはいえ、財産のこと、家のこと、母親のこと、墓のこと。

 

そんな内容の会話ばかりだったともいえる。

 

 

父親は、自分が先に死んだ場合、母親が先に逝った場合などを緻密に考えていた。

 

曰く、いけばなや茶道を長く教えていた母親の方が顔が広いから、かあさんが先に逝った時には、自分が喪主をつとめて、新聞に葬儀の案内を出して行う。ただし、自分が先に逝った場合は、退職して、数十年経ち、葬儀の案内を出せば、形式的な参列者だけが増えて、残ったおまえたちが苦労するだけだから、万が一お前が政治家にでもなるのじゃないんだったら、密葬にせよ。あとは戒名も、院号はいらない。彼の指示は克明で、死ぬ直前にはそのためのノートまで作成していた。黒塗りのノートの一枚目に、密葬の旨と院号はいらないがかかれていて、そのあと、数ページ、細かいことが書かれていたが、その後はさすがに自分でも嫌になったのか、何も書かれてはいなかった。父親が倒れる数週間前に母親が軽い脳梗塞で入院した。予後のリハビリ等を考えて、頭にメスを入れることにした。幸い手術はうまく行き、病院でのリハビリも始まった。

 

地元のケアマネジャーやヘルパーさんたちの世話を受けるようになっていた。母親の家事遂行能力が急速に落ちていったからである。ケアマネジャーにも、随分相談した。父と話し合った内容や、話し合えなかった内容も含めて、多くの可能性について話し合った。

 

経験豊富な彼女は、穏やかにこう言った

 

「皆さんいろいろな場合についてお考えになるんですが、高齢の方の場合、展開がとても速くて、結局、選択肢は急速に決まっていくものですよ。結局、当事者が何をしたいか、何ができるかだけを考えて、その場で判断していけばいいんです。」

 

 

東京に住んでいるぼくたちが、頻繁に帰るというわけにもいかなかったので、父親が、律儀に二日置きに病院を見舞うことを日課にした。ヘルパーさんたちが、きっちりとしたリズムのある生活なので、かえって張り合いがあるとお父さん言ってましたよと後で教えてくれた。父親らしいと思った。

 

ヘルパーのサポートはあるにしても、一人暮らしの老人となったわけで、ぼくは、母親の見舞いに帰省した折に、父親に携帯電話を持たせることにした。いまさら、携帯でもないなあといいながらも、万歩計の機能があって、それをぼくたちが、遠隔で確認できるということもあるんだったらと、携帯するようになった。

 

根が几帳面な人だから、常に持ち歩き、病院から帰ると母親の状態を簡単にぼくに報告するようになった。固定の電話より、聞き取りやすくていいと、これまでよりも、長電話をするようになった。一人になった寂しさもあったのだろう。気休めながら、少しは気持ちが落ちついた。

 

それから数週間が経った。

 

六本木の高層ビルでのミーティングに向かうエスカレータで、携帯がなった。妻からだった。

 

「お父さんに連絡がつかないの。病院にも行っていないし、今、叔父さんたちが家へ向かっている。」

 

父親の携帯をならしてみたが、返答がなかった。メールを送った。すると返信メールが、最後に使った時間である昨晩の夕方の時刻と、現時点での歩数を送ってきた。歩数0。冷たい数字が、冷え切った金属メスのようにぼくの内側に触れた。同僚に連絡し、ミーティングをキャンセルし、羽田へ向かうことにした。

 

羽田のチェックカウンターに近づく際に、携帯がなった。父親の名前が液晶に点滅した。急いで、着信ボタンを押した。

 

聞き覚えのない女性の声だった。

 

「お父さんお亡くなりになっていました。」

 

海外赴任を断念して始まったこの10年だったが、結局、ぼくは父親の死に目に会えなかった。

 

それからは怒涛の数週間だった。

 

入院中で、予後で認知障害の度合が強まっていた母親には、父親の死は伝えなかった。

 

密葬ということは、親戚、知人の間でも異論が多かった。この地域の教育に長年貢献したパブリックな人なのだから、きちんとすべきじゃないんだろうか等々。ぼくたちはとにかく、父親の遺志と母親の状態を勘案して、頑固に密葬にこだわった。密葬というのは具体的には葬儀公告を新聞に出さず、終了後に挨拶公告を出すということだった。

 

当日、密葬のわりには、元同僚、部下などを中心に多くの人が参列してくれた。

 

同じ本好きとして、比較的長い対話の歴史のある親子だったし、最後の数年は、喪の仕事を共同で行ってきたようなところがあるので、葬儀の際には、そんな父親にふさわしい挨拶をしなければならないと考えていた。棺の中には、星の王子様、賢者の黄昏、ルバイヤートの三冊を入れたこと。なくなる直前まで本屋に通うのを楽しみにしていたこと、葬儀に出発する直前にも、行きつけの書店から注文の書籍が届いたという電話があったこと。そのうち、あることに気がついた。葬儀の弔辞と喪主の挨拶は違ったものだという常識だ。ぼくはまるで親友の弔辞のような文面を考えていたのである。

 

スピーチの中で引用しようと思っていたオマル・ハイヤームの詩の一節は、こっそりと喪服のポケットにしまった。

 

ぼくはきわめて常識的な挨拶で父親の葬儀をしめくくった。

 

その後、母親を東京の近くの病院へと転院させた。毎週通える場所だ。また少し気休めになった。母親との人生は幸い今しばらくは続きそうだ。転院した事情や、父親の不在を、定かには認識していない。それを幸いにし、病室の母をぼくはただいまと訪れる。

 

そんな母親が、妻に

「お父さんもようやくこの場所に慣れたみたいよ。」

といったという。

 


千の風になって ~ 新井満

 

居間の食卓の横のサイドボードの上の、小さな写真たての中で、父親の遺影が穏やかに笑っている。少しは気分が楽になったろう、あと、かあさんは頼むよといっているような気がする。気分が楽になったことへの後ろめたさは一生消えない。

 

最高の親友であった父親への弔辞はまだ読み上げられずにいる。